ふらんすの田舎から


「ふらんすの田舎から」  ~ワールドカップ・フランス98観戦記~

 

 

 

●ラ・ドルドーニュの静かなる流れ

 

 フランスには山がない。もちろん、西のスペインとの国境のピレネー山脈や東のスイスやイタリアの国境にはモンブラン山などで有名なアルプス山脈という世界でも有数の山脈がひかえてはいるが、日本の国土の1.5倍に及ぶその国土のほとんどは、平地かまたは丘陵地である。唯一、国のほぼ中央南側にある山地が、その名も中央高地。クレルモン・フェランという有名なリゾート地もあるこの山地の最高峰の山モンドール山から湧き出した水が、やがてボルドーから大西洋に注ぐ川、それがラ・ドルドーニュだ。私の滞在地は、このドルドーニュ川沿いにある地方都市・ベルジェラックから川沿いの道を車で30分、ボバンという名のキャンプ場。貧乏旅行だからと覚悟はしたが、まさか泊まる施設が、トレーラーハウスだとは思わなかった。コテージ風の建物だと聞いていたのに!まわりの日本人は、この劣悪な環境に文句を言っていたが、私はさして動揺はない。なぜって、そこはまるで小野町みたいな環境だったからだ。最寄の駅は、歩いて1時間のラ・ランドという小さな街の駅。そこは小野新町みたいな駅だし、ラ・ランドの街も小野新町の市街地みたいな所。ちょっと歩くとフランスでは結構大手のチェーンのスーパーもあるし、毎朝、フリーマーケットみたいな朝市もたっている。スポーツ用品やら自転車屋さん、小っちゃなホテルやカフェ、とりあえず必要な店はある。フランス人は陽気じゃないので私が歩いていても、話し掛けてこない。小野町で言えば、総合運動公園といったところの簡単なスタンドもある芝生のフットボール場で、ランニングをしている男女の学生?に「ボンジュール」と声をかけても、「何だこいつ?」なんて表情をするだけだ。フランス人だったら、まだ日本人の方がラテン系(陽気)に見えるぞ。不思議な国民だ、山を越えただけで、イタリア人とこうも違うのはなぜなんだろうか?まあ、人はともかく環境は私は気に入った。ドルドーニュ川にはなんと白鳥までいる。どうしてこの時期(6月に)白鳥がいるのかは、わからないが、まちがいなくアヒルではなく白鳥だ。キャンプ場の看板にもちゃんと白鳥の絵が描いてある。そう言えば、その看板には☆マークが4つある。そう、ここはキャンプ場としては四つ星なのだ。簡単なレストランもあるし、プールもある。まあ、そう考えれば快適だなあ。オランダから早めのバカンスをとってきたという家族連れと、かたことで話しをしながらドルドーニュの流れに目をやった。澄んだ流れが、静かに、静かに流れていく。世界中を熱狂させるお祭りがこの国で開催されていることを忘れさせるような、ゆったりとした時間の流れ。そして、絵葉書のようなフランスの田舎の風景の中に、夕日が静かに沈んでいく。

 

 

●日本人の世界への原点・フランス

 

  10年前であれば考えられないような、日本中の関心を集め、第16回フットボール世界選手権・FIFAワールドカップは、フランスにて開幕した。日本が初めてワールドカップにエントリーしたのも、60年前このフランスの地で開催された第3回の大会だった。FIFA(国際フットボール連盟)やIOC(国際オリンピック委員会)を創設したのもフランス人であり、そしてまたこの地球最大のお祭りを創り出したのもフランス人によるものだった事を考えあわせると、フランスは、日本人が世界を意識するを多くのものを創り出した原点というべき地だ。62年前の昭和10年(1936年)。オリンピックのフットボールに日本が初めて参加したベルリン大会。ここで日本は一回戦、優勝候補のスウェーデンをやぶり、世界をあっと言わせた。もっとも韓国の人から言わせれば、この時の「日本」とは、日本・韓国連合チーム、もっと正確に言えば、日本・韓国・北朝鮮連合チームだ。フットボールを国技とする朝鮮半島では、戦前からピョンヤン・ソウルに強いチームがあり、日本選手権などでもたびたび朝鮮半島のチームが優勝または準優勝していたし、当時同じ国であったのだから当然だが、朝鮮半島から日本の大学に多くの若者がきていた。この時の日本代表に入っていた二人の朝鮮半島出身者の一人・金さんは早稲田の学生で、彼は後に韓国最初のプロチーム、ハレルヤの創設者となる。この時、世界への手応えを感じて、日本はプロもアマも参加し、真の世界一を決める大会・夢のワールドカップへエントリーした。だが、予選が行われるはずだった翌昭和11年(1937年)日中戦争が勃発、長い泥沼の戦争へと突入していった。朝鮮半島の人にとっても、日本列島の人にとっても夢であったワールドカップ出場は戦うことなくやぶれ、アジア最初の出場の栄冠は、オランダ領東インド(現在のインドネシア)に決まった。韓国がワールドカップに出場するのは、それから16年後。北朝鮮は28年後。そして暦が一回り(60年経って)して、日本はやっとこの舞台にたつ。

 

●チケット問題勃発!不安をかかえたままフランスへ

 

出発を2日前にひかえた夜、突如テレビでチケットが大量に不足しているニュースが飛び込んで来る。2月に運輸省の通達があったので、「やっぱり小さい旅行会社に頼むとそういう事になるんじゃないの」などと他人事のように思っていると、なんとほとんど確保できていなかったのが、私が申し込んでおいたK日本ツーリストではないか!翌日がむしゃらに電話すると、ツアーの中止との答え、「なにー、今更どうしろっていうんだ!」「チケット獲得には最大の努力はするが、最悪チケットがないという事でも…」なんとか努力はしているという言葉を支えに、フランスへ出発する。貧乏旅行なので、大韓航空。成田・ソウル・チューリッヒ・パリ…そして、パリからバスにて9時間。長い。不安と疲労と睡魔が交錯する。

 

●夢のワールドカップ。そして、3連敗。

 

最初のアルゼンチン戦は、ダフ屋からチケットを購入する。七千フラン。元値が350フランなので、20倍だ。空港で両替したレートで換算すると、189000円だ。それでもなんとか観れた事を幸せに思いながら、君が代を思い切り歌った。「日本がついにワールドカップに来たんだ! 」そう心の中で呟きながら。だが、ゲームは…3連敗。これはサッカーの専門紙じゃないし、ほとんどの人が試合を観た事だろうからここでは書かかない。しかし、選手のできはともかく、日本人の世界観のリアリティのなさが勝敗をわけたような気がする。「やはり世界の壁はあつかった」敗戦の将が語った言葉だそうだが、日本は「世界」と戦って負けたのではない。アルゼンチンと、クロアチアと、ジャマイカとタイプも実力も違う相手と戦って、同じ様に1点差で負けた。世界という壁があるという考え方は、島国日本人がかってに想像しているだけなのだ。第二次世界大戦で日本は妄想的作戦で多くの兵士をなくし、戦争に負けた事実が、戦争を知らない世代でも、なんとなくわかった様な気がする。ついでにその責任をとろうとしない、なあなあ的な人事で国を滅亡に導いているというのも、また同じなのだが、既得権益の中で生きているとそれが見えなくなってしまうのだろう。

 

●観光立国・フランス

 

フランスは自他ともに認める観光立国だ。私はパリから陸路9時間もあるキャンプ場で3週間ほどすごした。学校の教科書でおなじみのラスコー洞窟が近くにある。日本人の観光客はおそらくほとんど行かないこの地は、しかし、フランス人にとっては、とても観光的なところなのだそうだ。この地方の多くは、政府が補助金を出して、田舎の古い家を残す努力をしているところで、オレンジの瓦屋根と石灰岩の石積みの家がきれいに続いている。サルラという町の旧市街では、よく映画の撮影などがおこなわれると言う。驚く事にどんな田舎町にいってもi=オフィスデツールズムと呼ぶ、観光案内所があり、英語を話せる人がいる。日本でもどんな田舎町でも観光協会なるものはあるだろうが、それが専用の事務所をもって、ふらっと入る観光客に情報を提供できる体制であるところは、おそらく希だろう。物価は結構日本並みである中で、交通機関の運賃が安いのも観光立国ならではなのか。一ヶ月で国内航空便を7回利用できるフランスエアーパスが3万5000円程度で買えるのだから、日本にそんなサービスがあれば、ぜひ利用したいのだが。

 

●歓迎・日本。4年後のワールドカップ

 

日本の初めてのワールドカップは終わり、いよいよ4年後には日本・韓国共催でこの地球最大の祭りが開催される。今度は私たちが受け入れる側になるわけだ。最高級VIPから、フーリガンにいたるまでさまざまな人たちがやってきて、まず今まで日本人が経験した事のない大混乱になる事は間違いない。この大会はオリンピックの様な、国体を大きくしたようなものとは違う。民族のエネルギーを戦争以外で発散する唯一の祭りは、それゆえにマイナスの面もプラスの面もはかりしれないのだ。4年後の2002年に向けて「まちおこし」のネタにでも、どうだろうか?(終わり)