町立高校


平成13年(1995年)1月20日 OPINION掲載

劇団こまち座 二瓶 晃一(執筆当時31歳)

 

 昭和33年(1958)から昭和47年(1972)までの14年間、小野町に町立の高等学校があった。名称を「小野町立産業高等学校」といい、「産高」の呼び名で地域の人たちに親しまれていた。       

  昭和20年代後半から30年代前半当時の高校進学率は、小野町を中心とする地域の中学校12校をあわせると20~40数%と低く、多くの若者達が勤労青少年として地域に残っていた。それらの若者達の向学心を満たすために、県立小野高校では産業教育の一環として農閑期を中心に季節課程を5町4ヶ村にわたる16ヵ所に開設し、男子は主として農業、女子は主として家庭生活に関する知識技能を身につけさせ、更に一般教養も加えて地方産業人の後継者育成をはかっていた。

  そんな社会状況の中、昭和32年度までには、前述の季節家庭に学ぶ者は470名にも達し、県立小野高校の全生徒435名を上回る生徒数になっていた。

  そして、このような背景をもとに、町立高校設立の気運は高まっていったのだった。


●友人の兄

                                   

  私が高校3年の時、卒業前にみんなで「飲もう」という話がまとまり、うるさくない様に男子生徒だけ(?)で「卒業寸前懇親会」を開催した。当たり前の事だが、みんな酔っ払って、普段しなかった様な話まで飛びだしてとても愉快な飲み会だった。その席で私の友人のA君が話かけてきた。 

        

 「いやー、大学残念だったよな。…」

 

 A君とは小学校からの知り合いではあったがそんなに親しく話をする事もなかったので、そんな言葉をかけられるとは思ってもいなかった。彼は、私が稼業を継ぐ為に大学進学を断念した事を慰めてくれていたのだった。

 

 「んー…、そりゃあ一生懸命やってきた事が実を結ばなかったのは残念だけど、でもそんな事考えてる余裕がねーから。」

 と、私が言うと

 

 「俺の兄貴もよ…」と、彼は続けた。農家で大家族の末っ子の彼は、その当時もうすでに40を過ぎていたお兄さんがいた。

 

 「俺の兄貴もよ、成績よかったんだけど、高校にいかなかったんだ…農家の長男で親もいなかったから、すぐに働かねっきゃなんねがったから…だがら、今でも酒飲むど、高校に行きたかったって涙ながすんだ…」

 

産校の事を考える時、いつも彼の兄の事を思いだす、経済的な理由で…農家の跡取りだから、女だから…今の高校生の諸君が聞いたら笑っちゃうような理由で、当時高校に行かなかった、行けなかった若者がたくさんいたのだ、それほど遠くない昔… 

 そんな若者達が産高ができた時、高校生としての生活をおくる事をどのぐらい喜んだだろうか…当時の彼らの生き生きとした顔を想像せずにはいられない。そしてまた、町立高校…この言葉を聞くたびに、これを創るために奔走した人々の情熱と努力、それを思わずにはいられない。

 ちょうど、友人の兄が20歳くらいになった時なのだろうか、そんな若者達の涙と夢のエネルギーがひとつの高校を誕生させる。町立高校、正式名称・小野町立産業高等学校。昭和33年、3月の町議会において、前述の季節課程に学ぶ青少年を主たる対象として、町立の高等学校の設立を議決する。そして、その年の4月30日、学級数6(後に7)を誇る、福島県内最大の市町村立高校が誕生した。


●手探りの離陸

 

 当時、県では勤労青少年を入学対象とした市町村立の高校の設立を勧める方針をとっていて、小野町史によれば昭和33年4月1日付けで設立された県内の市町村立高校は小野産高の他、

 

 桑折町立醸芳高校(4学級)、

 松川町立松川産業高校(2学級)、

 柳津町立柳津産業高校(3学級)、

 平田村立平田産業高校(3学級)、

 表郷村立表郷産業高校(1学級)、

 浅川町立浅川産業高校(2学級)、

 川内村立川内高校(2学級)の計8校。

 

その後昭和35年には、

 

 猪苗代町立猪苗代産業高校(1学級)、

 磐城市立小名浜産業高校(3学級)

 

が設立された。この中で、小野町立産業高校(学級数6、後に7)は、最大の規模の学校だった。

  国の産業教育振興法の趣意をうけ、町立の短期産業教育課程の独立校と言う、全国でも類例すくないユニークな高校として、働きながら学ぼうとする勤労青少年に、将来を担う教養と技能を身につけさせようと創立された産高だったが、しかし、軌道にのるまでにはやはり幾多の困難が待ち受けていた。「産高十四年の歩み」から、当時の教職員の方の言葉をひろってみる。

 

 

「とくに印象深かったのは、雪道の生徒募集。地理的に知らない土地…そして部落。私は、靴の底に穴があくほど歩きづけの募集でした。校舎のない生徒募集はものにたとえる事ができません。不安と希望の連続の日々…発足して日も浅いので不自由するのは当然ですが学校用の自動車もなく、自動車どころか校舎もなかったのです…」 

 

         

 「小野高の校舎の一角に生徒数わずか百人足らず、ほんの小規模のものでしたが、そのあまりにも熱心な勉強ぶりに私はたじたじの思いで、時間の許すかぎり教科書にとりくまなければなりませんでした…」

 

  

 「校舎はなくとも、生徒は年々多く入学するようになり、不安がうすれて来ました…」

 

産高は、徐々に軌道に乗ってくる。しかし、その産高に思いもよらぬ災害が襲う。

        


●焼失、そして独立校舎の建設

 

 産高は、創立当初、協力校である県立小野高校の校舎の一部(元養蚕試験場・田村農蚕学校時代使用の建物)使用していたが、昭和36年1月1日の朝、隣接の酪農牛乳処理ボイラー煙突の加熱により類焼全焼した。

 

 「…翌年(昭和36年)の2月に学習発表会が計画され、生徒はもちろん職員も、父兄も、一体となって準備が進められました。それだけに、初めて試みる発表会はどんなものが出来るだろう、と町の関係者および地域の方々の注目のまととなっておりました。折りも折り、1月1日、酪農からのもらい火で一瞬にして校舎を失ってしまいました。発表会を前にしての火災は、谷そこに突き落とされた思いで、生徒も先生も手を取り合って泣いていました…」

 

 正月返上で生徒・職員総出で焼け跡のかたづけをし、そしてそこから、また産高の新しいしい歴史がはじまる。

 

 「その後の授業は、お寺や集会所、または民家の空き家と分散授業です。しかし、何くそと立ち上がった、あの根性は産業高校ならでは、と私は思います。いよいよ発表会の運びとなり、会館(昔あった映画館)をかりて昼夜二回にわたっての大がかりなものでした。…内容もこの地方にマッチしたものばかり、一躍にして産業高校はこの地方にはなくてはならない学校であると認められました。…」

 

 手探りの状態で離陸をはじめた、町立高校。この様な町の気運の中で、独立の新校舎の建設が計画されはじめていったのだった。


●日本一の学校へ 

                          

 昭和36年、12月20日。町立・産高の独立校舎が新築落成する。

                       

 「 "小野産高堂々落成"  20日盛大な祝賀式典と生徒作品展  

  

 当地方民待望の小野産業高校の新築落成祝賀式典が20日同校で盛大に挙行される。、同校舎は、木造モルタル二階建てで、1,414平方メートル総工費1,660万円をかけている堂々たるもので、町立産高としては全国を代表する立派なもの。同校は現在農業科と家庭科330人が在校しており、将来は電工科や木工科などの増設が強く要望されている。この学校は勤労青少年の教育の場として、宗像前町長が計画、現在の小野町長が仕上げたもので、前小野高校長・木村宗白氏から現在の安部校長に引き継がれたものである。同校が今日の隆盛をみたのは、同校職員の涙ぐましいい努力の賜で、在校生の範囲も(石城・田村・石川・双葉)の四郡境にまたがり将来の発展が期待されている。また同日は全生徒による作品展示を行なう。これは新築落成を記念して330人の生徒が、和裁、洋裁、手芸、生け花の新作発表を行なうもので、その作品の優秀なのは定評がある。

 

  これは、昭和36年12月20日の福島民報の記事です。思えばこの落成式の式辞、祝辞のすべての方々が日本一の学校にしたいと言うお言葉でした。私は実際に本校に勤める者として、信念と情熱に燃えて、この地域の人達に応える為にもこの言葉に惚れ込んで名実ともに日本一の特色ある学校を目ざして頑張ったつもりです。…」 

                       

 「昭和36年12月、独立校舎が建設された時は、職員・生徒の喜びは今でも忘れる事が出来ません。合い言葉として日本一の花園にしましょう。春は種子をまき、夏の日差しに水をかけ、秋には校庭一面に咲き誇るサルビヤの赤い花に道を通る人は目をむけてくれました。…」

 

 「町当局の強い強い協力のもとに独立校舎建設が実現される運びとなりました。私達は休日を利用して地もりの毎日でした。ようやくの思いで校舎が出来上がり、はなればなれの教室が同じ屋根の下で指導にはげまれる嬉しさは何か、花が咲こうとしている如く実にすばらしく、苦しかった生徒募集もふっとんでしまいました。…」

 

 「私が事務職員として採用になったのは、昭和37年1月1日付けでした。当時は、学校も新築されたばかりなので、木のかおりがぷんぷんする校舎で、産高創立以来の最高の在籍生徒数を誇りました。設備の面でも定時制高校としては県下でも一、二を争う充実した環境のもとで、真剣に勉学指導に励んでいる生徒や教師のいきいきとした目を見た時、この異常なほどの雰囲気の中で、自分に課せられた使命をまっとうできる幸せを感じました。そして、この傾向を長く持続させせる為に、教師はひとつの輪となり、なお一層の発展を夢みて、雨の日も雪の日も生徒募集にでかけて生徒を集めた為、競争相手の私立高校からは憎まれましたが、歴史の浅い我が学校も生徒確保により一応の安定をみて、学校行事としての関西修学旅行の実施、盛大な学校祭、…等の数多くの行事が実施され、また一方修了され社会にでた本校生も地域に帰って青年団等の責任あるポストにつき活躍されるなど、学校の実績も地域に浸透されはじめ、今までの苦労のかいがあったと関係者一同喜び、今後の学校運営について話しあっていました。…」

 

 軌道に乗ったかに見えた町立高校も、やがて全日制の普通科の進学熱の高まりと、勤労青少年の減少により、生徒数が激減し衰退を始める。それは、前述の社会環境の変化もさることながら、実は産高が現代にも通じる大きな制度的問題を内在させていたからだった。  


●卒業証書のない高校

                               

  産高のOB(研究生としてのOBもいるが)は、卒業生ではなく、修了生と呼ばれる。それは、産高が卒業証書のもらえない高校だったからだ。産業教育振興法にもとづき創立された産高は、学校教育法による高等学校ではないため、卒業しても高校卒の資格が得られず、生徒の学校教育法による身分は中卒のままだったのである。生徒達に卒業証書を渡してやりたい、それが関係者の最大の夢であり望みだった。学校教育法による四年制の定時制高校へとの陳情は幾多となくおこなわれたが、ついにその夢は実現することなく、産高の生徒数は激減していく。                              

  産業教育振興法と学校教育法。この二つの法律に登場する同じ「教育」という文字は、法律をつくり国を運営する官僚の人達にとっては違う言葉なのだろうか? …若者達が夢にまでみた高校生としての自分… それはいつしか法律の違い、管轄の違いにより蜃気楼の様に実態のないものになっていった。今なおかかえるこの国の組織の縦割りの構図が、当時の生徒達にも重くのしかかっていたのだ。

                         

 「創立以来、修了間際の生徒に『学校生活を終わるにあたって』と題して感想文を書かせた。そこに共通して現われたのは、入学当初の劣等感、半年ほどしてからの自信と誇り、技能を身につけてくれた恩師と母校への感謝、にもかかわらず卒業証書をもらえぬ事への寂しさと不満、そして、母校が名実ともに高等学校となり後輩が悲しまないようにとの願いである。ここには産業高校の特質とわが国の社会・教育界の積弊が現われている。…」


●そして、町立高校はなくなった…

 

 昭和45年、県教育長通達により産高はついに次年度からの生徒募集を停止する。そして昭和47年、最後の修了生37名の修了式に続き閉校式を行い、その歴史に幕を降ろす。

 

 「やがて、生徒の全く絶えていなくなった名残の校舎は、決して小野産高の墓標ではないはずです。この日が起点となって新たな使命と構想による地域発展の教育が、本校14年の汗と涙による代々の生徒の貴重な遺産の積み重ねの業績の上に展開されることを期待しようではありませんか。」

 

 「せっかく築きあげられた独立校舎も堤防の一部に残して去らなければならない悲しさで胸がしめつけられる今日です。生徒が減少してこの様な実態になったのではない。殺すものはいたが、助けるものがいなかった。この校舎はきっとションボリ寂しく一日くれる日が長く感じる事でしょう。…」

 

 「例外的な特異な存在である本校の特質は極一部の直接関係者に知られるのみで、わが国社会大勢の中では忘却される運命をたどってしまた。一方、学歴偏重の風潮は、生徒、保護者をも席捲し、高校卒業、卒業証書への願望、執着は、本校がかかえて来た「業」であった。周知の様に、わが国教育界がかかえている学歴偏重に発する積弊は改善される兆しすらなく、むしろ増長の傾向にある。この時に、本校は先導的試行ともいうべき存在であるはずなのに、顧みられることなく消え去ってしまう。貴重で特異な存在は、大勢順応型には、或いはやっかいな存在と受け取られ、邪魔ものあつかいする態度は後世に悔いを残さないであろうか…

 

  「産高十四年の歩み」を読んだ時、特に生徒代表の方の次の言葉と教頭の言葉が印象的だった。この言葉が、今なお私達に新鮮に心にしみる事に、何十年経てもまだ同じ問題がそこに存在する事に一種の恥ずかしさがあった。 

 

  「私達の学校は県立高校にも満たない、町立高校です。でも、学校教育とは、教養を養うだけではないと思います。なんらかの不幸にも負けまいと前進し、苦しいから、悩みが多いから、だから前向きの姿勢で自己の人間形成に努力し、励み、更に手を握りあい助けあって来た私達、仲間を持ち常に明るく建設的な生き方を忘れまいと、心に決めて来た私達なのです。…」

 

「今日、高校教育の多様化が叫ばれ、再来年からは多様化されたカリキュラムによって実施されようとしております。しかし、この多様化はあくまで教育課程や単位計画表の多様化であり、学校そのものの多様化ではありません。私は現代の画一的な高校教育のシステムの中に、今後は産業高校のような特色ある学校が再生する時代が来るような気がしてなりません。激動する国際情勢とわが国の歩みとから、社会の要求するものは生涯教育であり後期中等教育の多様化であります…いつの日かわが国高校教育の系列の中に、多様化の一つとして新しい形態のものが生まれてくるとするならば、このような面で産業高校の独特の精神が生かされる事を望んでやまないのであります。」            


●小野高のこと

                       

  私が高校に進学する頃、もうすでに産高はなかった。私が在籍する頃の小野高と言うのはクラスが1学年9クラス計21クラスもあり、生徒数1,200人あまりの学校となっていたので、言ってみれば、昔の小野高と産高が一緒になった様なものだった。そんなわけで産高がもっていた劣等感と言うものを、まさに一手に引き受けた様なところがあって、超四流校のレッテルが貼られていた状態だった。

 中学時代、みんなにのせられて生徒会長などをしていた私は、生徒会の顧問の先生から「小野中の生徒会長は代々磐城高校へいってるので、おまえもいってもらわなくちゃ困る」と言われて、先生と大口論になったのを今でも思いだす。まあ、たぶん先生は軽い気持ちで言ったのだと思うが、「小野中の生徒会長が何で磐城高校に進学しなくちゃいけないのか!」と私にくってかかられて先生はビックリしたみたいだ。若かった(?)せいもあるが、14歳の頃、私の心の中で小野高が「町立高校」だったのだ。

 だが、実際に小野高に入学してみると、少し様子が違った。生徒達がどうであるかは先輩や同級生達であるからある程度の予測はついたが、先生達があんなに偏差値的思考なのには驚いた。そして何よりも、教師も生徒も自分の高校に誇りをもっている人達が少なすぎた。 そんな自分の経験を考えると、産高の歴史をひもとく時そのすごさに驚く。あの時代だから…生徒がみな働いている社会人だったから…いろいろな理由があるかもしれない。しかし、今、もし町立の高校があったとしたら、教職員総出で生徒募集に歩くだろうか? 校舎をつくるために教師・生徒全員が休日返上で土もりするだろうか?


●町立 白樺高校物語

 

 2月18日の土曜日、劇団こまち座は第2回公演を開催する。今年のタイトルは「町立・白樺高校物語」。町立の産高をモデルにした。去年は「夢を見る」事をテーマに物語を創ったが、今年は「夢を実現する」事をテーマに地域に生きる若者の姿を書きたいと思った。                    

  町立高校を設立しようとして、町会議員に立候補する25歳の若者。それを応援するとこやのママ。議会で猛反対する毛呂田権造…そして、この町立高校に入学し、楽しくもまたほろ苦い経験をしながら高校生活を送る若者たち。町立高校の名前は白樺高校。(名称はリカちゃんの通う白樺学園からとった)町立高校をめぐる様々なドラマに私達の地域の想いを込めた

 

  劇団はすべて素人の集まりで、演劇をかじった人すらいない。だから、この劇が果たしてどのぐらいに仕上がっていくのか、試行錯誤の状態だ。私達の創作劇。しかし、この物語は100パーセントのフィクションではない。実際に当時の町立高校を設立しようとした人々、実際に町立高校生だった若者達、その当時の人達を想いながら、一人一人が連日練習に励んでいる。

 白樺高校の生徒の一人が、高校がなくなってしまう時に、叫ぶセリフがある。

 

  「いやだ! …俺達は町立白樺高校で卒業したいんだ!」  

 

 このセリフは、卒業証書をもらう事のなかった、町立高校生達への想いをこめた言葉だ。

 私達には、何の権限もなく、そして何の力もない。だが、今回私達が創り、私達が演じるこの物語を、町立高校を巣立った二千人の先輩達に、30年の年月を経た今、私達から「町立高校の卒業証書」として贈りたい。

      

 

 

町立白樺高校物語  原作者 二瓶 晃一


Next