「本」


平成4年(1992年)11月20日 OPINION掲載

二瓶 晃一 (執筆当時30歳)

 私の部屋は高校生の時分から片付いた事が ない。高校生の頃は、勉強の息抜きにと部屋 の掃除をこまめにしていたものだが、今はそ の時間もなく、友人も(あまりのちらかし様 に)入る事もない「あかずの間」となってい る。  

 

 その最大の原因となっているのが、ありと あらゆるジャンルの本なのだ。サッカーの専 門誌はもちろんの事、歴史や古典。宇宙や進 化に関する科学もの、そしてマンガ。生れ乍ら の貧乏性の私はそれらを捨てる事なく部屋に 置いてある為、ラッシュアワーのサラリーマン の様に、あわれ本たちはおしくらまんじゅう。 そんな状態がもう何年も経ってしまった。 


 小野町多目的研修センター隣には大きな建物 が今、建設中である。「ふるさと文化館」だと 言う話は以前から聞いていたが、その 中身がどうなるのかとなると知っている人が あまりない。以前にたまたま議会を傍聴しに いった時の町長の答弁の中に「ふるさと文化 館」の話しがでできて「民族資料館と図書館 をあわせたようなものをつくりたい」と言っ ておられてた。基本的にはその内容になるの だろう。  

 

 「図書館かー」と私は思う。私の先輩達に は 年代がちょうどそうなのであろうが 小学校のPTAの役員になっている人が結構 いる。だいぶ前の話しだが、「小野新町 小学校に図書館がないのはおかしい」という 話しがPTAの役員会の席ででたらしい。

 

 「 あれ?おれたちがいた時も図書館てあったん じゃなかった?」と思ったが、どうもそれは「図 書室」であって「図書館」ではないらしい。新小く らいの規模の小学校ではみな図書館をもって いる、少なくとも「館」とよべるほどの蔵 書のある図書書ルームがあるらしいのだ。

 

 私 はそれを聞いた時に子供達はそれをほんとに 希望しているんだろうか?と若干、疑問に思った。 そしてそれを仮につくったとしても果たして 何人の子供達が利用するのだろうか?  

 

 これも、3年位前の話しになるが、私は友 人と一緒に小野高の学校祭にでかけた時、図 書館に遊びにいった。そこに私達の在校時分 からいる先生がいたからなのだが、本をなに げなく見回っていた友人がある本をなつかし そうに取り出して何やら笑っている。友人は 「この本、高校時代に読んだんだよ」と、貸し 出しカードを取出して見せた。そこには友人 と彼の親友の二人の名前が書かれているだけ だった。それ以来10年以上もだれも借りてい ない事になる。  

 

 「それって小野高だからじゃないの」とい う人もいるかもしれない。借りないまでも図 書館で読んでいるのかもしれない。でも、「 やっぱりそんなもんなんだよな」と思う。 


 ちゃくちゃくと建設が進む「ふるさと文化 館」をながめながら私が思う事は、この中に できる図書館を「町民の持ち寄り」による図 書館にできないかなあ、という事だ。どこの家 庭でもきっと一度読んでしまっていらないん だけれど、良い本なので捨てるのには…なんて 本が一冊や二冊はあるはずだ。

 

 どんなジャン ルでもかまわない。例えばマンガでも。手塚治虫 先生が出現してから日本ではマンガは立派な 文化として成り立っているのだから。 そして、本に「私の青春時代の想い出の本 ○○○より」なんて寄贈者のメッセージなん かが書かれていたら最高じゃないか隣人か ら隣人へ。世代から世代へ。町の誰かが一度読んで感動した本を、次々と読みあってゆく。

 

 それはけしてカッコいい図書館ではないだ ろう。ていのいい古本屋のようか、もしかしたら「ちり紙交換の回収センター」の有様になる かもしれない。だが、それは少しづづ少しづ づ、しみだすように地域の文化を創ってゆくに 違いない。私はそんな気がしてならない。  

 

 考えてみると行政は本を買う支出をしなく てすむし、環境問題にも貢献するわけだ。そ して何よりも私の部屋が「開かずの間」から脱却するのではないかとの期待をいだかせる。 なんだみんなハッピーじゃないか! 


 本だけには限りない。オモチャとか古着と かいろいろな「持ち寄り文化」を創りだして いけたらもっともっと地域が豊かになると思 う。まちを「つくる」という時にみんなが外 側の「殻」だけを考えている。ほんとうに大 事なのは中身だ。  このまちに必要なのは8億円の「殻」では ないのだ。