古(いにしえ)に魅せられて


小町サミットを終えて

平成9年(1997年)4月1日 広報誌おのおの 掲載

二瓶 晃一 (執筆当時35歳)

 小町サミットを終えて

 

1996年7月に小町サミットが小野町で開催された。小野小町生誕の地のモニュメントを作った時にもサミット開催の話があったから、そういう意味では念願であった一つの事業を開催する事ができたわけで、私としては商工会青年部での復活小町キャンペーンの一つの良い区切りとなったなと実感している。そういう思いも込めて、今までの復活小町キャンペーンを振り返りながら、今回の小町サミットの報告をしたい。

 

広報誌「おのおの」とともに

 

私が商工会青年部に入った年、当時商工会青年部長は佐藤正治さんだったが、青年部の広報誌「おのおの」が誕生した。定期的に出す事、部員だけの読み物でなく対外誌を原則とする事で、今までの広報誌よりももっと情報発信していこうと言う発想だった。その編集の中で、当時広報委員長だった高橋宗彦さんから、「小町の話は子どものころによく聞いていたけれど、あれはどうなったのかな?」との話をもらい、それじゃあと書き始めたのが「真説小野小町シリーズ」だった。そしてそれが小野町商工会青年部が小野小町と関わる最初のきっかけだったと思う。

宗彦さんが「子どもの頃から聞いていた」と言うのは、一つには宗彦さんが仲町に住んでいて篁神社(矢大神社)の由来とかを知っていた事と、私の父が昭和30年前後、小町温泉小唄制作などにからんで、小町の話を宣伝していたからだと思う。当時は、小野町の小町伝説はまるっきりのでっちあげだなんて思われていたみたいで、随分苦労したみたいだが、当時まだ子どもであった宗彦さん達の世代が、その小さな心の片隅に「小町伝説」を焼き付けていた事を聞き、それがまんざら無駄ではなかったのだと思うと個人的にもまた感慨深いものがある。

広報誌「おのおの」の連載から始まった小町との関わりは、高橋宗彦さんが部長になると復活小町キャンペーンとして事業化され、小町生誕の地のモニュメントをつくり、資料をつくり、町の入り口に看板をたてたり、まちの若者達を中心にゆっくりと「小野小町伝説」は復活ののろしをあげていった。

 

ドラマチックタウンへ!

物語のあるまちづくり事業の始まり

 

その後、復活小町の活動は意外な展開をした。福島県の事業であった「物語のあるまちづくり人材育成事業」なるものの指定を受け、当時の青年部長・斎藤信晴さん、次代部長の村上勝徳さん、そして、現部長の吉田昌布さんと3代の部長にわたり劇団こまち座をつくり、小町の伝説をベースに創作の演劇を上演する事になった。

全員が素人で、何がなんだかわからぬままに始まった事業だったが、たまたま3代の部長が生来の芝居好きと言う事も手伝って、事業は何とか継続してゆき、何かと町内に話題を提供する事となった。

 

小町サミットの招待状

 

 おととしの3月。一通の手紙が山形は小野川温泉から届いた。それは何と第一回の小町サミットを開催する予定なので、出席してほしいとの案内状だった。「やられた!」と心の中で思った。そして、それは吉田昌布部長も同じだったらしい。「次回はぜひとも小野町でやろう!」まだ、第一回の小町サミットにも出席しないうちから、二人で決意した。それから、行政の担当者にお願いして企画をねっていったが、何せ財政難?と言う事で、予算をつけてもらうのが大変だった。「手金をだしてもやる!」とおおみえをきった私達二人の言葉に理解をいただき、なんとか苦しい中から予算をつけてもらった。担当となった都市整備課のみなさんや、企画開発課のみなさん、それに親商工会の役員のみなさん等々には大変お骨折りをいただいた。この場をかりて、感謝の意を表したい。

 

千年の物語を、次の千年へ

 

小町サミットの内容については、各報道機関にも記事が載り、また、前回の「おのおの」でも報告があった様なので、特にこの紙面では書かない。イベントのスケール自体は、巨大なものではないが、小野町からいろんな方面へ情報発信ができたと言う事は、一つの価値があった様に思う。それと同時に、私と部長がこのイベントの開催にこだわったのは、これを小野町商工会青年部の復活小町キャンペーンのフィナーレ(最後)を飾る事業にしようとの決意があったからだ。

始めた頃は、若い連中が何だかわけのわからない事をやってる様なイメージだったが、10年を越える活動の中で、小町伝説はまちの人達の中で市民権を得て来た。これからは、まちのイメージを演出する力があり、またその立場にいる人達に大いにがんばってもらい、私達の貴重な文化としての財産を守り育てていってもらいたい。

 

町長さんからの言葉

 

長い間、小野町の町長を務められた秋田直孝さんが、先日亡くなられた。私が高校3年生の時に初当選なされたのだから、私が社会人になってからはずっと秋田さんが町長さんだった。以前は、商工会青年部の主催で「町長と昼飯を食う会」などを開いて、一緒にラーメンなんか食べて雑談したりもしていたが、体調を崩されてからはあまり私達と懇談を開く事もなくなっていた。確か小町のモニュメントをつくった頃、東京の病院に入院されていたと記憶している。

この間、所用で東京へ行ったが、今度できる秋田新幹線の名前が「こまち」である事に、「また秋田県にはやられたな」と心の中で苦笑して、自分達の力のなさを痛感した。別に名前が同じだからではないが、その時ふと、亡くなられた秋田前町長の言葉を思い出した。小町生誕の地のモニュメントの除幕式の時に、病床からいただいたメッセージだった。

「いつ頃からか「真説小野小町」なる物語をせっせと書き始めたもの好きが、商工会青年部にいるわいと心惹かれてはいたが、まさかモニュメントなどを造るまでに事を運ぶとは思っていなかったので、除幕式の案内状を見て驚いたり感服したり、実に嬉しい次第であった。

当世は、何によらず実践家が実践家が減って、やたら評論家と提案者ばかりが増えてしまったので、何にでも行政がしゃしゃり出るようになり、ふるさとの人間臭い歴史や伝統などまでを開発という名の行政がこね回すようになってはいけないと思っていた時だから、このような小町にまつわる青年達の一連の実践行動を見ると私は何とも言えず心地よい感動に浸ってしまうのである。

少し欲を言わせてもらえば、我々島国育ちは物事を短時間で小ぢんまりと仕上げたくなる癖があるから、後はのんびりと時間をかけていろいろ楽しみながらやってほしいと思う。そうすれば、諸説紛々の真説として定着するに違いない。

商工会青年部の皆さん、どうもありがとうございました。」

 

小町サミットに集まった全国のお客様の前で、秋田さんがどのような話をしたかは、忙しく跳ね回っていた私にはわからない。しかし、今、私は8年前のこの言葉を秋田さんの顔を思いうかべながらかみしめるのだ。

  千年の物語を次の千年へ。ゆっくりと楽しくやっていこうと、小野町に住むすべての人達に思っていただければ、商工会青年部が12年をかけた「復活小町キャンペーン」の価値があったと思う。